ベルツ博士・概要: ベルツ博士はドイツ出身の医師で、明治政府に召還された所謂「政府お雇い外国人」として来日しました、日本には実に29年間滞在し明治14年(1881)には日本人女性「ハナコ」と結婚しています。主に東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として当時の日本の医学界に大きな影響を与え、明治35年(1902)に退任後は宮内省侍医を務めています。日本人に西洋医学を教育する一方で、自分自身も日本の文化を吸収し、日本独自の文化の素晴しさを痛感していたようで、当時の日本の知識人が藩政時代の文化を否定し表面だけの西洋文明を取り入れる姿勢を強烈に批判しています。
日本人はまず自分の文化を理解し、西洋文化と比べて何が優れ、何が劣っているのかを知る必要性を説き、ただ単に西洋文化だから無条件に良い訳では決して無いと述べ、西洋文化を単純に模倣するだけなら私は日本にいる必要は無いとまで言っています。
当時の日本は西洋建築が次々に建てられ急速に近代化する一方で廃仏毀釈運動が吹き荒れ、西洋人から見ると大変素晴しく価値のある寺院や仏像が次々に破却する様子は耐えがたかったと思われます。学問を学ぶ姿勢についても、本来は知識を得る事についての探究心や興味の延長の積み重ねにより得られる必要性があるのにも関わらず、当時の日本人は結果だけを求める事が大変多かったと批判しています。
何れもベルツ博士が日本に精通し新しい日本を創り上げる為に大変熱意があったからで、その実績が讃えられ明治38年(1905)に旭日大綬章を受賞しています。
草津温泉の湯治伝説: ベルツ博士が草津温泉(日本三名泉)にきたのは明治11年(1878)頃で、草津は温泉だけでなく、最上級の空気と理想的な飲料水があると絶賛し、明治23年(1890)には「日本鉱泉論」を発刊し、明治29年(1896)には草津温泉の研究書である「熱水浴療論」を発表し草津温泉の医学的有効性を評価し世界中に紹介。又、明治23年(1890)には草津の地に約6千坪の土地を購入し、温泉保養地開発にも尽力しています。草津温泉の発展にベルツ博士は欠かせない人物として現在でも「草津の恩人」として尊敬され平成12年(2000)には町内に「ベルツ記念館」を創立しています。西の河原にはベルツ博士と、同じく草津温泉の発展に尽力したスクリバ博士の胸像が建立されています。
案内板によると「 明治時代、東京帝国大学(現在の東京大学)に、「内科にベルツ、外科にスクリバあり」といわれて日本近代医学の基礎を築いたのが両博士です。両博士とも無二の親友で、共に草津温泉を科学的に研究し、その医学的効能を世界に知らしめ、またスクリバ博士は、町民に無料で診療を施し、町民から深く親しまれました。この胸像は、東京大学構内の両博士の胸像が、戦時中、供出されたときコンクリートでコピー(ベルツ記念館に展示)したもので、戦後草津町に送られたものを、1992年(平成4年)5月に姉妹都市締結記念事業にて立替えられたものです。 草津町 草津町教育委員会 」とあります。
ベルツ博士は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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