丹羽長秀・概要: 丹羽長秀は天文19年(1550)以来、織田家に仕え、織田信長の側近として梅津表の合戦や稲生の戦い、桶狭間の戦い、観音寺城の戦い、高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆征伐、姉川の戦いなど数々の戦に従軍し安土城(滋賀県近江八幡市安土町)の普請奉行などでも功を挙げています。
又、信長の養女を正室に迎え、嫡男の長重も信長の娘を娶っている事から家臣の中でも個人的に親しい間柄だったとされます。元亀2年(1571)には要衝の地である佐和山城(滋賀県彦根市:後の石田三成の居城)が与えられ、その後は若狭一国の領主になるなど、家臣団としても主席家老だった柴田勝家に次ぐ格式を得て織田四天王、織田五大将などに数えられました。
天正10年(1582)の本能寺の変では信長の3男信孝を補佐して明智光秀の娘婿にあたる津田信澄を攻め、山崎の合戦では羽柴秀吉(豊臣秀吉)と共に明智光秀の軍を破っています。
織田家の跡目相続を決する清洲会議では逸早く羽柴秀吉を支持し天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いや天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでも秀吉に与して行動したした為、若狭国(福井県)に加えて越前国(福井県)と加賀国(石川県)の半分が加増され合計123万石が安堵され大大名に成長しました。
天正13年(1585)に胃癌により死去(諸説有り)、享年51歳。跡を継いだ丹羽長重は秀吉の画策により最小4万石まで石高が減らされましたが、結果的に丹羽家の除く織田家五大将だった豊臣家、明智家、柴田家、滝川家が何れも大名家からは没落している事を考えると、戦国の世を何とか渡りきったといえます(丹羽長重は慶長5年:1600年の関ヶ原の戦いで西軍に与し一端改易になったもののその後復権し、棚倉藩5万石、最終的に二本松藩10万石の藩主に就任しています)。
草津温泉の湯治伝説: 丹羽長秀が草津温泉(日本三名泉)に湯治に訪れたのは天正10年(1582)4月3日、武田勝頼が嫡男信勝とともに天目山で自害したのが3月11日である事から、武田家の滅亡の慰労と戦傷を癒す事が目的だったと思われます。長秀は共に徳川家康の接待役を勤めた堀秀政と織田信長配下の卅六飛将に数えられた多賀常則と共に一時の暇が与えられ草津温泉で疲れを癒しています。
丹羽長秀は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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