長野業尚・概要: 長野業尚は資料が少なく詳細が不詳な人物で、一般的には浜川の館の城主長野乙業の子供で明応年間(1492〜1501年)に鷹留城(群馬県群馬郡榛名町下室田)を築き、居城を浜川から下室田に移した人物とされます。
鷹留城下には文亀3年(1503)に雙林寺(群馬県渋川市)住職曇英慧応を招いて長尾家の菩提寺である長年寺を創建し、境内には業尚の墓碑(法名:慶岩長善庵主)をはじめ長野家歴代の墓碑が建立、長年寺の背後は鷹留城である事などから境内は出城的な役割を持っていたと思われます。
永正9年(1512)には箕輪城(群馬県高崎市)を築城したという説がある一方で、死没年を文亀3年(1503)にする説もあり良く判っていません。こちらも。詳細不詳ですが関東管領上杉顕定の執事に就任していたという説があり室町幕府8代将軍足利義政からの御内書には発給先として長野左衛門尉の名称があり、これが業尚ではないかとも推察されています。
草津温泉・伝承−長野業尚が草津温泉(日本三名泉)に訪れたのは大永6年(1526) 、越後国守護代長尾為景と一緒だったとされ、偶然湯治中だった大光宗猷禅師(曇英恵応)と出会い、教化を受けたとされ、この出会いを縁として業尚は文亀元年(1501)に大光宗猷禅師(曇英恵応)を招き長野家の菩提寺である室田山長年寺(群馬県高崎市室田町)を開山しています。
業尚の死没年が文亀3年(1503)、長年寺の開山が文亀元年(1501)である事から草津温泉に訪れた年代である大永6年(1526)とは大きな矛盾があり、他の資料で記載されている延徳2年(1490)が有力ですが、こちらが正しければ長尾為景の年齢と矛盾が生じる為、為景ではなく、父親である長尾能景が草津温泉に入ったとも考えられます。どちらにしても、伝説や伝承の類の話なのかも知れません。
長野業尚は草津温泉の象徴的存在である湯畑の石柵にその名が刻まれています。
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